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あまり時間がないのでここだけ更新しています。 その日書いた分をまとまりなく記事にしています。 ある程度まとまったらHTMLにする予定です。
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というか見なおしている




 例えば、こんな幸せな展開は、どうだろう。
 過去に不幸で陰惨な事件の被害者となった少年と少女、彼らは十年近くの空白の後に再会する。
 心にトラウマを抱えたままの二人は、お互いの傷を舐め合い、依存するように恋に落ち、たった二人だけの幸福を手にする。
 筋書きを抽象的に述べると、よくあるシリアスな恋愛物。味付けにちょっとしたミステリー風味。深夜にやっているドラマのようだ。
 そういった展開は、どうだろう。
 判りやすくて、いいかもしれない。複雑で憂鬱で突飛な真実よりも、判りやすい嘘の方が、世の中には受け入れられやすいだろう。
 そうだ、それがいい。
 だから、と言おう。そんな犯行動機を用意しておく。
 過去の不幸を背景にした幸福は脆く儚かった。おれは、この幸福を守るために、かつての不幸から逃れるために、犯罪を重ねていくしかなかった。
 心情的には、説得力のあるお話じゃないか。
 犯人になっちまえば、エピローグでの独白が必要不可欠になってしまうだろう?
 前もって準備しておいても損はない。しくじってしまう可能性は、あるんだから。

 授業に飽きて窓の外を見た。物語の語り手としてのお約束通り、おれは教室で窓際の後ろから二番目の席に座っていた。
 視線を向けた先。窓ガラスの向こう、桜が全て散ってしまった緑色が並んでいる。教室は三階だ。緑色の桜の木の頭がガラスの下に並んでいる。風にそよいでいる。
 その爽やかな植物の色の上に、ちらりと黒い影が映った。
 視線を上げる。反射的に、影の正体を確かめようとした。
 それは少女だった。
 天使のような白い羽が背中から生えていた。悪魔のような黒いコウモリの羽だった。いや、羽なんか生えていなかった。ただの少女だった。
 彼女は一目で非現実と認識で来てしまうような、不自然な状態だった。魔法少女的なステッキを持っていたとか、インパクト狙いで行くなら血塗れの釘バットを握っていたとか。そういう方向転換なら、重火器とか日本刀を携えているっていうのもよくある。
 とにかく彼女にどんな設定があるとしても、空から落ちてきた時点でそれは現実的な美少女でなければならない。
 美少女なんて言うなら、どんな顔なのかっていうのを描写しないといけないだろう。その娘は現実にはありえないほど大きな目を二つ、現実によくいるタイプよりも横長気味の顔にはりつけている。それは硫酸をぶっかけて強制的につるんとさせたみたいな、目鼻口その他の凹凸がごく控えめな造形。極端に整った出来栄えで、言ってしまえば現実からかけ離れた別種の美しさ、可愛らしさ。それにには実在の女は全く太刀打ち出来ない。一部の人間の弁。
 胸は小さい。長い髪は黒髪だ。絶対に。そして黒いセーラー服。襟の赤いライン、赤いスカーフ。小柄な彼女のスカートの長さは膝よりも少しだけ上。落下しながらも絶対にパンツは見せない鉄壁の防御力を誇っている。
 そしてそんな彼女とおれは、目があった。彼女の赤味がかった瞳が、射ぬくような強い光でおれを見据えた。落下する速度と窓枠の狭い切り取り線が許すコンマ数秒。強烈な印象。
 そして数秒後に少女は地面と激突する。
 確かに落ちていった。確かに落ちた音がした。下から響いた、潰れた音。
 おれは授業中にもかかわらず、急に席を立ち上がり、窓へと駆け寄った。一階の窓際で潰れた彼女を確認するために。コンマ数秒間の運命と、予想されるグロテスクな結果に突き動かされていた。
 教室は二階。窓に鍵はかかっていない。勢い良く開いた窓枠が、軋んで嫌な摩擦音を立てた。
 おれの意識の外側で、教室がざわつく。
 開いた窓から躊躇いもなく見下ろす地面の上に、首や背骨があらぬ方向に曲がった、真っ赤な彼女の肢体が――無い?
「久々知、久々知兵助! 急に席を立つな」
「え?」
 背後から教師の怒号が飛んできて、おれは急に現実に引き戻された。
「どうした。居眠りでもして、変な夢でも見たか」
 おれは二、三度瞬きをして、窓の外と、教室の中を交互に見回して、そして教室の中のいたたまれない雰囲気に、耐え切れない気まずさを感じた。
 授業中に急に席を立って、窓の下を覗き込むなんていうのは――普通に考えて、異常行動だ。
 そしてそんな異常行動を起こしてまで見たかったものが、どこにもない。
 幻? くらくらする。自分でも、何がしたかったのか、わからないような、夢から覚めた時のような感覚だった。
「なんでもありません」
 呆然としたまま、おれは席につく。教師は呆れたように眉をひそめたが、それ以上何も言わずに授業を再開した。
 釈然としない。今、確かに彼女は落ちていったはずだ。開いたままの窓の外へ、再び視線を向ける。さっき立ち上がったのは、おれだけだった。ということは、他の誰も気が付かなかった? 落下する美少女なんて見たら、まともな人間だと言うのなら驚くに決まっている。
 彼女の強烈な視線を覚えている。見間違いとは思えない。
 時計を見ると、まだ授業の終わりまで三十分は余裕である。早く彼女を探しに行かなければ、と焦っていた。
 だって普通、気になるだろう。空から落ちてきた美少女。
 実際は、焦る必要なんて無かった。何しろこの数分後、また彼女と再会することになるのだ。
 再び現れた彼女は、今度はきちんと教室の入り口から入ってきた。
 爆音と共に。
 彼女は異形の者と日本刀で戦いながら転がり込んできた。
 悲鳴だ。金属同士の擦れ合い軋む音。聞いたことのない低い低い音程の雄叫び。一瞬にして、教室は非日常に変わった。
 化物は昔読んだ子供向けの絵本に出てくる赤鬼とか青鬼とか、あの辺をさらに凶悪にしたような見た目であると考えておけばいいだろう。全体的に黒っぽい感じ。
 その非現実的な醜い化け物、それと戦う少女、彼女の体から漂う腐った血のような異臭、ざわめく教室、女子の悲鳴。
 全て一瞬の出来事として済まされる。
 教室のドア付近に座っていた女子が逃げ遅れている。見境なく暴れる化物の腕が、女子の脳天に向かって振り下ろされた。
 弾丸のように現れた日本刀の少女は、その細い体を、化物と女子の間に間一髪で滑りこませた。
 刀を盾に、振り下ろされた腕を受け止める。が、化物のもう一方の腕の、横薙ぎの一撃をまともに食らった。筋肉隆々とした太い腕の一撃。
 教室の机、椅子、それから逃げ遅れて座ったままの生徒を巻き込みながら、窓際まで彼女は吹き飛ばされる。
 壁に背中から叩きつけられ、呻いた。
 口の端から一筋、血。倒れこんだまますぐに顔を上げ、きっとおれの方を、睨んだ。
 そうだ、その赤茶色の目は、あの化物ではなくおれの方を見たのだ。あの落下の途中の色と同じように。
「兵助、何故だ!? 何故貴様は動かない! 早く思い出せ!」
 燃える赤い目と、どこか懐かしい高い少女の声色。
 つまりこれが、彼女とのファーストコンタクトだった。
 嘘だけど。
 空から美少女が降ってくるなんてのは、ありえない話。ただし例外に飛び降り自殺。
「久々知、問6」
 黒板の前で、教師が言った。おれは教科書へ視線を戻した。当てられてしまった。が、別に焦るようなことじゃない。なぜかというと、さっき前の席のやつが問5を当てられていたので、次はおれだと判っていたから。この教師は席順の通りに当てるので、やりやすい。
「9」
「正解」
 と、こんな風に、直前まで全然別なことを考えていたとしても余裕だ。
 次に当たるのは後ろの席のやつ。このクラスは四十人いるから、大抵の場合は二回目はこない。
 教師は今の問題の短い解説の後、素早くおれの後ろの席のやつの名前を読んだ。そいつは即答できなかった。解く時間は十分あった気がするが、寝てたのだろうか。教師はからから笑って、「寝てただろ?」とおれが考えたのと同じ事を言った。
 ごく当たり前の授業風景だし、おれは窓際の席じゃないし、席を立ってもいないし、落下して潰れる美少女はいないし、つまり日本刀を携えてモンスターと戦う美少女はおれの妄想だし、この初老の教師もどんな事情があろうと突然怒鳴るような性格でもない。つまり全て嘘だ。
 孤独な教室の中での現実逃避、誰にだって経験はあるだろう。
 孤独だって言っても、教室の中には四十人の生徒が乱雑に並べられて座っている。教師は始終喋っている。客観的に見れば全く孤独でもなんでもない。
 でも主観的には孤独。おれ一人の個人的な理屈により、孤独。
 理由は?
 突然窓から飛び降りたりしないように気を使われて、窓際の席に座れないからとか?
 判りやすい理屈だ。要注意人物扱いということ。皆、おれが突然窓から飛び降りないかどうかを心配している。ずっとそうだ。学校という物に通うようになってからずっと。
 だからおれはおれは生涯一度も席替えを体験したことがない。急に気が触れる可能性を示唆されてることはどうでもいい。何しろ正常と異常のラインというのは非常に曖昧模糊で未だおれには判別がつかない。
 そんなことよりも生涯一度も席替えを体験したことがないって事の方が、悲劇的じゃないだろうか。好きな娘の隣にならないかなとか、居眠りしてても見つかりにくい席になりたいとか、そういう甘酸っぱい記憶が皆無なのだ。おれはこの教室の中でたった一人だけ席替えの楽しみを知らないということになる。これが孤独ってやつ。その一つ。
 断っておくが、おれはそんな風に誤解されるいわれはない。飛び降り自殺しそうってのはね。大体、頭がおかしいなんてのがまずひどい誤解だ。まあ、もしかしたらおかしいのかも知れないが、その責任をおれに求められても困る。
 だって子供の頃に誘拐されたのだって、おれ自身の責任じゃないだろう? その後のことだってそうだ。自分で好き好んで犯罪を犯したことなんてない。あの時もそうだったし、当然これから先だってそのつもりだ。
 これまでの人生、人殺しの経験はない。予定もない。
 でもおれの証言なんて、完全に信じてるやつは多分この世にいないのだ。一人も。
 その証拠に、おれは今も、連続殺人事件の容疑者だ。最近起こった方の。起こったっていうか、現在進行形中のやつの。
 犯人は、現在も逃亡中。恐らく現在も殺人を楽しんでいる。恐らく明日にも新しい死体が出る。
 でも、おれは当然犯人じゃないので、容疑をかけられても困る。まず間違いなく犯人は頭が悪く変態であり、そんな奴と同一視されるなんてたまったもんじゃない。第一、まだ警察にも声かけられてないのに、何で無責任に井戸端会議的な容疑をかけられるのか。
 疑われる言われは、あるんだけど。
 つまりそうして、実際、そういう噂が校内にあるわけだ。
 とにかくこの平和で明るい教室の中でさえ、おれは信用の置けない人物としての疑いと敵意を四方八方から感じている、っていう話。主観的な孤独ということ。
 でも客観的事実に反している孤独なので、つまりそんなのは嘘ってことになる。

 おれはへーくん、である。正式名称久々知兵助。これは嘘偽りのない本名。親が勝手に戸籍にそう書いたからだ。
 あんまり耳になじまない名前だ。何しろ親は別な名前で呼ぶし、友達は――小さい頃からの友達からは、へーくん、と呼ばれていたから。
 正式名称で呼ばれるのは最近になってからだ。
 ちなみに、へ、で始まる名前だからへーくんなのである。なんだか間抜けな響きなので、当初このあだ名を付けられた際は猛反対した。おれにも音感的な価値観は存在する。しかし、苗字を取ってくーくん、にはならなかった。今考えてみると、いくらなんでも発音しづらい。それならへーくんの方がマシだ。
 そのあだ名をつけたのは、かつて、同じクソ狭い部屋に閉じ込められていた、綾部という奴だった。そいつも同じく、あの頃の児童連続失踪の被害者だった。
 二人で同じ狭い部屋に閉じ込められて、同じように飢えて、同じような暴力を受けて、同じようなあだ名で呼び合った。
 思い出すと頭が痛くなるような現実なので、それは当然ながらトラウマっていうやつになっている。あそこから命からがら逃げ出した今だって病院通いだ。
 しかしそれでもおれはへーくんだった。
 それがおれの前提。
 授業がやっと一日分終了し、上の空でHRを聞き流すと、おれはすぐに教室を出た。
 今日こそあーちゃんと話をしたい。それは深い欲望だ。愛してるから。嘘だけど。
 あーちゃんは、あ、で始まる名前だからあーちゃんになった。あーちゃんはおれの一つ下の二年生だ。誰よりも美人さんであり、聡明で、明るい。誰からも好かれる人気者で、多分料理とか上手い。しかも幼馴染。誘拐が縁で小学校の頃から知り合ってるわけだし、まあ幼馴染の範囲内に入ってると言えると思う。
 幼馴染っていったら当然、安心のフラグ率のはず。むしろあえてフラグを折る方向に行かないと回避できない、そんな病んだ勢いさえある。バッドエンド回避の受け皿、とか考えていると後々三角関係とかで痛い目を見ることも多いのだ。
 しかしそのはずなのに、朝起こしに来るイベントとか別に起きない。一向に起きる気配がない。近くにいるんだから来てくれたっていいのに。
 というかそれどころか、先週おれがこの学校に転校してきてかなり久しぶりに再会したのに、会話すらできていない。存在は認識されているみたいなんだけど。
 やっぱりストーキングなんて行為が問題なんじゃないだろうか。
 一応理由は判っているつもりなんだけど、判ってるだけでなんとかなるかっていうと別な話。
 仕方が無いのだ。ストーキングは既におれの日課。偉大な愛の日課だ。とか、そういう妄言。
 理由が何だろうと、とにかくおれはあーちゃんに会いに行かなければならない。
 とはいえ、あーちゃんが授業が終了するなり素早く教室を出て行ってしまうのは知っていた。何しろストーカーだから、そのぐらいの行動パターンは把握している。今から行ったって間に合わない。判ってはいるが、それでも一応追ってみる。その辺はストーカー心理だから仕方が無い。
 そして急ぎながらも廊下を走らないのは、おれが規律ってやつを大切にする真面目な人間なんだ、とそういうことで間違いないので、それもしっかり理解してもらいたい。

 あーちゃんのクラスは一つ下の階にある。どこか薄暗い教室だ。それは大声で話せないような疑惑を、クラス中で抱えているからだろう。その疑惑の原因の一つは、まあ、おれなんだけど、そういうのを気にしていたらキリがない。
 廊下側の窓が開いている。この窓からなら、衝動的に飛び出しても死ぬことはない。そこから教室にいる下級生たちの話し声が聞こえる。明るい、普通の感じ。
 で、そこにおれが顔を出す。そうすると、生徒たちの間にゆるい不安が、にじむように広がるのが見える。自意識過剰か?
「ね、あーちゃんは?」
 廊下側の窓際で芸能人か何かの話で盛り上がっていた女子の集団に、声をかけた。一応精一杯の爽やかさを装っている。つもり。
「あっ」
 振り向いた娘が、顔をひきつらせておれを見た。派手な茶髪の娘で、なんだかあーちゃんとは気が合わなそうな見た目だが、実際は結構仲がいいのを知っている。
「もう、帰りましたけど……」
 だからこそ不審そうに、小さめな声でそう言った。
 なに、こいつ。いつもキモい。
 と思われているのだろうと思うと、正直なところ傷ついてしまう。多少。
「そう。ありがとう」
 しかし傷ついているのだとか、別にそうでもないとか、そんな素振りは全く出さずに、おれはただ爽やかな先輩風に彼女に笑いかけた。彼女が微妙な愛想笑いを返すのを見てから、おれは素早く立ち去る。
 いや、少し思い直して、
「一人で?」
 振り向いて、追加の質問をしてみた。
 しかし彼女は既に開いていない窓の影に逃げ込んでいて、返事はなかった。
 やっぱり結構嫌われているし、腫れ物扱いだ。慣れているので傷つかない。嘘じゃない。
 これはおれのくだらない日課だ。

 途中で、先輩につかまってしまった。タイムロス。
 彼女は教室を出てから、ものすごいスピードで逃げるように帰ってしまう。ここのところ、少なくとも一週間ぐらいはずっとそうらしい。だから急がないと。
 仕方なしに、走る。
 おれは階段を駆け降りて、見えない彼女の背中を追った。
 何も入ってない鞄が邪魔だ。着慣れない制服が動きづらくて暑苦しい。耐え切れなくて、ネクタイも外してしまった。ブレザーのボタンをちゃんと止めているやつらは、なんて我慢強いんだろう。シャツをズボンに入れているやつは苦行のつもりなんだろうか。これは慣れが必要みたいだ。
 校舎の中をぐんぐん走って、靴箱の間をすり抜けていく。沢山の高校生たちがうろつく校舎内を、見慣れない顔が走り通りすぎていくので、すれ違いざまに不思議そうに振り返られる。しかし、おれにはあーちゃんだ。
 彼女がどこに住んでいるのか、さっき先輩に聞いた。だから慌てなくてもいいんだけど、判っているんだけど、気が急いた。
 すぐに会って話しをしたい。今すぐに。
 ずっとそう思っていた。
 校門を出て、まっすぐの道。道の両側は何も植えられていない畑が広がっている。小さな紫の花が一面に咲いているけど、これは多分雑草だろうと思う。
 下校中の高校生がまばらに歩いている道を駆け抜けて、正面に低い崖がある。崖は線路二本のためだけの高架だった。その下に狭い短いトンネル。黴びた壁に、黴びた雨水が、何本も細い筋の模様を作っている。そういえば今日の一時間目の間ぐらいに少し降った。
 トンネルの向を抜けると、広い国道にぶつかった。背後の畑と、トンネル一つ隔てたコンクリートの平原。なんだか懐かしい風景だった。ほぼ十年ぶりかぁ。
 この国道は、この県の都市部とベッドタウンを結んでいる。少なくともおれが誘拐される直前までは、そうだった。
 ここから右に行くと街の方で、左が田舎に続いている。あーちゃんが住んでいるのは、左の方。
 広い歩道のまばらな人影の中に、やっと彼女の背中をみつけた。
 彼女は、やっぱり早足で歩いている。同じ方向に歩いている学生たちの間を縫って、どちらかというと強い足取りで、ぐんぐん進んでいる。
 背中に垂れた柔らかそうな髪が、左右に揺れていた。腰には届かないぐらいの長さ。明るい茶色、ゆるいウェーブ。小学校の頃から同じ髪型だったから、染めてもいないし、パーマもかけていない、素の髪質だと思う。
 あと少しだって、焦って走っていた。彼女と同じように、他の歩行者を避けながら、なんだけど、どうも上手くいかない。こんなに長距離を走ったのは久しぶりだし、そもそも人の多い歩道っていうのが久しぶりだから。体力が無いわけじゃないと思うんだけど、馴れてない。感覚が追いつかないみたいだ。時々避けきれなくて、肩や鞄がぶつかってしまう。
 小声で、すみません。振り返った相手は、大抵迷惑そうに、あるいは単にびっくりした顔でこちらを見るだけで、何も言わない。でもこれは目立ってしまっているから、良くないな。
 そんなことをしていると、せっかく追いつきかけていたあーちゃんが、遠くなる。追いつけない。曲がり角。見えなくなる。
「綾部!」
 おれは思わず、彼女の名前を叫んでいた。
 ぎょっとしたように、あーちゃんが振り返る。ここからは結構な距離がある。全く無表情な彼女の顔が、自分の名前を呼んだ人物を探して、視線を泳がせた。
「綾部」
 歩いている他人の目が、少し、こちらを見ている。あんまり目立ちたくないと思っているんだけど、しかしもうやっちゃった後だから、仕方がない。もう一度、名前を呼んだ。
 あーちゃんは、不思議そうにおれを見ている。いや、完全に無表情なんだけど、立ち止まってじっとこちらを見ているので、不思議に思われているんじゃないかな、と思う。
「おれだよ。その……覚えてない?」
 普通に話して聞こえる距離まで近づいて、おれは息も絶え絶えに改めて声をかけた。心臓が早く動きすぎて呼吸ができない。精神的なもの。緊張していた。
「あ、綾部……君」
 二回苗字を呼び捨てにした。小学校の頃なら問題なかった。急に不安になって、取ってつけたように敬称をつけた。
 対してあーちゃんは、やはり無表情のままだった。いや、無表情どころか、ちょっと冷めたような目だ。
「どちら様ですか?」
 きれいな赤い唇で、突き放したようにそう言うのだ。
 突き放してるのか、それともおれが勝手に突き放されたと思ってるだけなのか。十年ぶりなんだから、顔なんて覚えてなくったって無理はないのに。変に希望を持っている。
「あ、おれは」
 名乗って、いいんだろうか。おれの名前。
 迷っていると、彼女は眉を顰めてそのまま立ち去ってしまおうとした。知らない男に話しかけられた時の、普通の反応。
 しまった、と思う。つなぎとめたい。
「あーちゃん」
 咄嗟に、声に出た。
 馴れ馴れしくもおれはそんな風に、呼びかけてしまった。まだ呼び捨ての方が、マシ。
 あーちゃんの顔が、驚愕に歪む。
 間違えた。間違えたんだ。おれがそんな、そんな風に呼ぶ資格なんて、ないのに。
「へーくん」
「え?」
 驚いた。彼女が、何を唐突に叫びだしたのか、すぐには判らなかった。
 へーくん、だって?
「へーくん! へーくん! へーくん!」
 両目から涙をぽろぽろこぼしながら、彼女は大きな声で、その名前を呼んでいる。無表情はだんだん崩れ去って、ひどく叱られた子供のような痛ましい泣き顔に変わっていく。
 へーくんって、あの頃の呼び方。
「へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん」
 泣きながら、ガタガタ震えながら、ぶっ壊れたオーディオデータみたいに、あーちゃんはひたすら同じ部分を繰り返している。
 データの保存に失敗しました、とか。ああ、そうだ。そんな感じ。そうだ、当たり前だ。彼女も破綻していたんだ。
「へーくん」
 と、彼女は繰り返す。あーちゃんの頭の中、それとおれの頭の中、に、へーくん、が像を結んでいく、それを追いかけるような、反芻。
 多分、おれが推測していることは正しい。あーちゃんの頭の中に起こっていることが、わかる。破綻してぐちゃぐちゃになっていた記憶を、一生懸命に組み立てなおしてる。
 おれもこのパズルを経験しているから。
「へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん……」
 へーくんが一人、へーくんが二人、へーくんが三人……。
 現実的に、へーくんってこの世に一人しか、いないけど。
 あーちゃんの赤茶色の虹彩が溢れ出る体液に沈んで輪郭を曖昧にする。
 どうしておれは、おれ以外はみんな無事だと思っていたんだろう。命が助かったってのは聞いてたけど、そうだ、頭が助かったとは誰も一言も言ってくれなかった。
 もしかしたら、もしかしたら、おれが一番、まともなの?
 変なものを見る目で、赤の他人がこっちを見ながら通りすぎていく。
 この壊れたあーちゃんを、どうしたらいいって。やり方はたった一つしかない。
「あーちゃん、久しぶり」
 そういえば、おれは本当は全く最初から、そのつもりだった。××だから。そうなんだろう。
 だから彼女に向かって両手を広げて、
「おいで」
 と、そんな嘘を吐いた。
「へーくん!」
 糸が切れたように、あーちゃんが蹌踉めいて、倒れこんでくる。軽くて温かい、懐かしい、感じ。懐かしいんだと――思ってみる。嘘。
「あーちゃん、大丈夫?」
「うん、うん。ねえ、へーくん」
「うん」
「どこにいたんですか」
「ちょっと入院してて」
「心配しました」
「ごめんな」
「許しませんから」
「うん。判ってるよ」
「もうどこにも行かないで下さい」
「そうだな」
 おれは本当にどうしようもない嘘つきだと思う。泣きながら笑うあーちゃんはきれいだ。でもそれはおれの嘘に基づいた美しさなのだ。
 だからおれの嘘が崩れたら、破綻すると判り切っている。
 したがっておれは今後も継続的に嘘つきになる。だから強い罪悪感を抱いている。
 しかし同時に、そろそろ通行人の目が痛い、とか冷静に考えている部分もあったりする。自分で言うのもなんだけど、こういう二面性も嘘つきという人格の証明。
「あーちゃん」
「はい」
「家、帰ろうか」
「家?」
 きょとん、と泣き止んだ目であーちゃんがおれを見上げた。
 これ以上、平和な夕暮れの公道で、キレた少女と不審人物少年Aのラブシーンを繰り広げるわけにはいかないのだ。
「私の家?」
「そう。一緒に」
 言いかけて、先をこされた。
「住みますか?」
「え」
「同棲」
 こんどはこっちがきょとんとしてしまった。心配だしとりあえず一緒に行くから、ぐらいのつもりだったのに。
「一緒に暮らしましょう」
 まだ涙の残っている顔で、あーちゃんは笑って言った。花が咲いたみたいな、笑顔。
 で、まさかのプロポーズ? に聞こえた。
「こっちです」
 おれが返事をする前に、彼女は踵を返して歩き出した。おれの手をかなりの力でぎゅっと握って、引っ張っていく。有無を言わせない、って感じ。付いて行くしかない。
 これは流行のジェットコースター恋愛ってやつ?
 でも考えてみると、今日の再会から、ジェットコースターみたいにことが進んでるのは本当だった。




先週は寝不足で前後不覚になった
今週はよく寝る

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