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あまり時間がないのでここだけ更新しています。 その日書いた分をまとまりなく記事にしています。 ある程度まとまったらHTMLにする予定です。
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 診察室から出ると、待合室はさっきまでよりも賑わっていた。とは言っても、誰も自由には喋らない。親子連れ、夫婦、恋人同士……のように見えるいくつかのグループが、弱々しい声で断片的な会話を交わしていた。
「へーくん!」
 患者を並べたソファーの一番前で、あーちゃんが大声でおれを読んだ。甲高い少女の声。人々は萎縮し、受付で働く看護婦たちが鋭い目をこっちに向けた。
「あーちゃん、病院では静かに」
「遅いです。何の話をしてたんですか?」
 あーちゃんは全くおれの話など聞かずに、まだ大きな声で……実際、大声というほどでもないんだけど、でも病院の待合室では十分騒がしく聞こえるだろう。
そんな事、言っても仕方ない。おれは診察前と同じように、彼女の隣へ腰を下ろした。
「いつも通りだよ。不安はないかとか、睡眠障害とかそういう……」
 等と嘘八百、慎重に並べながら、あやふやに煙に撒く。
「よくなりそうですか?」
「うん」
 取り敢えず、相槌。
「ふーん。へーくんは、安全なところに居ますからねー」
「ん? どういうこと?」
 まるでこの子は危険なところにいるみたいな言い方だ。
「正直にお話してるんですか、あの医者と」
 向き合った彼女の目が、不満げな光でどよんでいた。それは単に、診察というやつが長引いて、待たせてしまったからいじけているのかと思っていたけど。いや、家を出るときから不貞腐れて口を尖らせていたから、単に病院が嫌いなのかと思っていた。病人扱いが、というか狂人扱いが、嫌なのかも、なんて。
 どうやらそれは甘い考えだったみたいだ。
 あの医者、と、憎々しげにあーちゃんは発音した。
「そりゃ、おれは患者だし、あの人は医者だからね」
「わたくしはですね、どうしてへーくんがあの医者を紹介してきたのか考えているのです」
「だっておれと同じ病院に通った方がいいだろ? こうして一緒に来れるんだから」
 言って、おれはソファーの上に置かれた彼女の手を慎重に握った。
「これはデートですか?」
「そう」
「頭おかしい二人の、慎ましやかなお付き合いですね。精神病院デート」
「心療内科だよ」
 おれは彼女の白いワンピースの袖口ばかり見ていた。あーちゃんがとんでもないことを言い出すから、どうも気まずくて。変に静かな待合室が。ここにはたくさんの人がいるのに。
 病気の人々は自分のことで手一杯で、同時に世界のすべてが気になって仕方がない。おれがそうだから、きっとみんなそうだと思う。
「わたし、あの先生がきらいです」
「初対面じゃないか」
 あーちゃんがこの病院に来るのは、今日が初めてだ。これまで、彼女の親戚は人目を気にして遠くの街の病院に通わせていた。彼女はそれに従っていた。特に何の意図もなく。親戚連中が彼女の問題からほとんど完全に目を逸らし切っても、彼女は特になんの意図もなく同じ病院に通っていた。その病院はあーちゃんに薬を受け渡す以外の何の役にも立っていなかった。
 別に彼女にとって病院なんてどこでもいいし、なんでも良かったのだ。
 だからちょうどいいと思って、おれはあーちゃんの病院を移すことにした。
「どうしてこの病院にしましたか?」
「知り合いに紹介してもらったんだ」
「どのお知り合い?」
「かなり昔にお世話になった人」
 と、嘘。
「名前を言いなさい名前を」
「新野先生っていう人」
「知らない人」
「だろうね」
「むー、へーくんは私に教えていない人間関係がありますね」
「ま、一個人として。嫉妬してくれる?」
「私、物分かりいいように見えます?」
「見えない」
「その通りです。私はあいつが嫌いです」
「善法寺先生」
「善法寺伊作。あの人は嘘つきです。嘘つきは嫌い」
 嫉妬、じゃないよなあ、これ。
 嘘つきじゃない人間なんていないのにな。あーちゃんだってそうじゃないか。
「だからあいつは私の敵なんです」
 と、彼女はむくれてそっぽを向いた。

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「はい」
「どこか悪いところは?」
 おれは肩を竦めた。
 この人は精神科医である。精神科医に対して、自己申告の病状はどんな意味があるのだろうか。
「特に何も」
 自覚ある精神疾患は現在のところ、ない。端から見てりゃ、あるかも知れない。自覚はない。
 もしかして人より少しは嘘つきかもしれないか、それでも平均的嘘つきだ。社会生活の中で嘘をつかない人間は殆ど存在しない。だから。
 どこが異常かって、自覚があれは苦労は無いんだ。そこを手術して摘出してしまえばいい。正常からはみ出した異常を。それが判るんなら。
 だいたい、おれは患者としてここに通っているわけじゃない。
「心、開いてくれないんだもんなぁ」
 医者は、笑いながら、態とらしく、冗談めかしてため息をついてみせた。
 この人は精神科の医者で、善法寺伊作という名前だと聞いている。そろそろ三十歳、と証言していた。戸籍を見たわけではないので本当かどうかは知らない。しかし少なくとも白衣の胸ポケットに刺された名札には、「善法寺」と書かれている。
 この医者先生はおれの現住所から電車で六駅、山と川を超えた先の街中で雑居ビル内に心療内科を開業している。医者は他に男性が二人、女性が一人いるようだ。待合室にはいつも(三回目だが)十人近くが順番待ちをしている。昨今の社会情勢上、こういった商売は繁盛すると聞く。
 息の詰まる時代だからね、とは医者本人の弁。以前に疲れた顔で言っていた。不養生だろうか。
「そういえば、この間の心理テストはどういった結果だったんですか」
「知りたい?」
「知りたいですね」
「うちはあんまり患者には詳しく言わないようにしてるんだよ」
「何故?」
「意外とつまらないからさ。みんなもっと大層深刻な結果が出るに違いないと期待して来てるんだ。夢を壊しちゃ悪いだろ」
「その発言自体、どうなんですか」
「君は患者じゃないから。言っちゃなんだけど、君別に医者にかかる必要、なさそうだよね」
「そうですか? 精神科の扉を叩いたのは三回目ですよ。ご存知だと思いますけど」
「でも治したいところなんてないんだろ。そんな顔をしている」
 相変わらず腕を組んでふんぞり返り、にやにや笑って言った。
 さっきも証言した通り、おれは精神病の患者じゃない。一応、診察に来たという形にはしているが、それは診療時間の方が時間の都合がつけやすい、むしろサボる口実になるからと伊作さんが希望したからってだけだ。
 だからといって自分が医者に掛かる必要のない五体満足とは思わないが。
 少なくとも二回目に病院に駆け込んだ時には——一回目は事件直後に否応なく収容されたが、二回目は自分の意志だった。病院ってのは、いつの時代も容疑者が身を潜めるのに都合がいい。
 三回目のここは、二回目におれを見てくれた医者からの紹介だった。
「まあ、健康そうなのはいいんだよ。取り敢えず安心した」
「病院に来るならもっと不健康を装った方がいいでしょうか。始終独り言をしているとか」
「うちに来る患者程度なら、毎度泣きそうな顔をしてりゃ十分だけどね。混ぜっ返すなよ」
「そういう気分ではないです。独り言ならいくらでも出てきそうですけど」
「混ぜっ返すなって言ってるだろう」
 口をとがらせ、首を傾げた。それから一呼吸の間、何か考えたようで、
「君には感心することばかりだ」
 と、言った。
「よく言われます」
 と、返した。もちろん、褒められているわけじゃないということぐらいはわかっている。
「うん。まずそれだけ減らず口が叩けるのがすごい」
「それもよく言われます」
「とてもじゃないが十歳児のようには思えない」
「十七歳です」
「こんな十歳児存在しない」
「十七歳です」
「生まれてほんの十年弱で、人はこれほどコミュニケーション能力が成長するものだろうか?」
「生まれたのは十七年前です」
「僕は早急に師匠と連絡を取り、君の精神的成長過程を洗ってみたいと考えている」
 師匠というのは、おれに伊作さんを紹介した精神科医のことだ。彼は大学病院に務める生真面目な教授で、伊作さんの学生時代の恩師だった。
「まだ連絡とってないんですか? おれの生存報告してるんじゃなかったんですか?」
「メールは送っているけど、不精な人だからねぇ。返事が一ヶ月ぐらい経たないと来ないんだ。いつも」
「電話とか」
「電話をかけるのに常識的な時間に、暇があったためしがない」
 伊作さんはどちらかというと痩せて青白い顔色の男だ。女のように髪を伸ばしているが、切る暇もないのだと言う。その引換に病院は繁盛している。金を買うのに必要なのは時間だ。でなきゃ、善意を売って悪意を釈放するか。
 痩け気味の頬を人差し指と中指で何度か掻いた。
「帰ります」
「もう? 一時間は診療時間で取ってあるんだ。君が帰ったら、別な患者を押し付けられる」
「一時間も?」
 一時間もの間、この医者と中身の無い会話を続けるのか?
 この人のことが格別嫌いというわけじゃないが、それにしたって一時間も他人と二人っきりで、話すことなんて別にない。
「いいじゃないか。それとも何か、君がいいと言うなら僕は仮眠を取ってやるぞ」
「はあ」
「いいのか? 君の目の前で、君の存在を無視し、机に突っ伏してあと五十分は寝続けてやる」
「帰っていいんですね?」
「だから」いじけたように口をとがらせた。「冗談だよ。つまらないかな」
「すいません」
「なぜ謝る。謝られた方が虚しい。いや、これは君の欠陥か。次の君の課題は、冗談を解する能力を訓練することだな」
 そんな事を言われても。
「もちろんこれも冗談だ。とかく僕は君の監視役だし保護者代理だ。数日に一回一時間、話し合うぐらいは当然だろう」
「監視役というのは初めて聞きました」
 伊作さんが、しまった、という顔をした。
「ま、まあ、悪い意味で言ったんじゃないよ。悪ぶって言ってみただけっていうか……その、つまり君を心配している人がたくさんいるってことさ」
「たくさんって」
 一人、二人じゃ、たくさんじゃないだろう。少なくとも三人目がいないと。
 大人でおれの経歴をはっきりと知っていて、ある程度まで親しい人間? 伊作さんと、大学院の先生、あと一人以上。父親はおれの経歴をよく知っているが、親しくはないし、心配などしていないから数に入らない。周囲には心配だと言いふらして回っているようだったが。
 その他の誰が?
 伊作さんはまだ落ち着きなく視線を泳がせて、自分の頬をつねったりしている。
 善良そうな人だ。言い忘れたが、伊作さんは善良に見える風貌だ。実際、おれほどではないが皮肉屋で、尾浜と違って常識の範囲内で探究心が強く、タカ丸のような病んだ自己犠牲ではない優しさがある。振り切れないのが、大人の証拠だろう。
 犯罪を企んでいるようにも見えないし、あんまり突っつく必要もないか。
「話、戻そう。とにかく、ま、学校は上手く行っていると」
「はい」
「いじめられてない?」
「全く」
「友達できた?」
「同じクラスで、何人か。さっきの、委員長とか」
「授業にはついていけてる?」
「今のところは」
「受験、どうするんだ?」
「生活が安定してから考えます」
「バイトとかは?」
「してません」
「どうするんだ」
「落ち着いたら考えます」
「いつ落ち着くんだ」
「そのうち」
「言えないのか」
 言えない。
 まだこの事態に目処はついていない。
 伊作さんがため息をついた。
「君は何がしたいんだい」
 抽象的な質問だ。多分、これがこの人が言いたいことの全部。
 壁にかかった時計を見た。小児科の病院にあるような、おもちゃの兵隊が丸い文字盤を飾ってるからくり時計だ。短針が十二の文字を回ると、音楽とともにその下の小窓から人形が出てくる。それまであと四十七分もある。
「君があの十年前の監禁事件以来、常軌を逸した精神構造になっているも判っている。それでも君はなんとか世の中に対応していこうと努力している。なぜだ?」
 十年前じゃない、まだ九年目だ。
「そうしないと生きていけないでしょう」
「生きるのも死ぬのも動機がいる」
「生きる動機?」
「そうさ」
「好奇心です。人並みの」
「そして君はわかったようなしたり顔をする」
「右も左もなんにもわからないので、とりあえずわかったような顔をしておこうと決めているんです」
「減らず口だ」
 その通りだろう。
「やっぱり信用してないんです」
「何だって?」
「医者というか肩書きだけで、他人を信用してもいいのか、判らない。だから伊作さんと深く話し合う気になれないんです」
「なんて事言うんだ、お前」
 あと四十三分。この人と会話の練習でもして時間を潰そうか。対話の実験。
 伊作さんはムッとした様子で、やや険しい表情をし、口調が少し乱暴になった。
 恐らくこの人は、これまで二回の診察と称した事情聴取と、恩師の紹介というお墨付きを以って、おれとそれなりに親密になれた、と考えていたのだろう。これまでの馴れ馴れしい態度から判断しても間違いなく。
 しかしその感覚の正誤は判らない。この人とおれは本当に親密なのか? おれには判らない。
「信用してもらわないと治療にならない。医者の大前提だ」
「初診の患者は?」
「そりゃ、初めてならまず信用してもらえるように努力するよ。この仕事はそれがまず骨が折れるんだ。でも君は、もう三回目だし」
「というか、そもそもおれは患者じゃないんですよね」
「ああ、そうだな、その通り。クソっ、また話逸らしやがったな! 僕が訊きたいのは、君が何のために行動しているのかっていう……」
「まるで容疑者に対する詰問みたいですね」
 伊作さんは、ウッと言葉を詰まらせた。
「どうして他人がそんな事を知りたがるんですか? 好奇心か、正義感か、あるいは誰かから報酬でも貰っているのか」
「……あとは、同情と責任感さ」
「あ、そうだ。それも」
「どれも、だよ。お金以外は、全部だ」
「悪意も?」
「悪意?」
 きょとんとして、おれの目を見た。
「人間の行動の動機、全部って」
「馬鹿か! それを言ったら食欲とか性欲とか、何でもあるじゃないか!」
「それは気持ち悪いです」
「お前な」
 と、何かを言い掛けたながら何かを飲み込み、伊作さんは口籠った。
 それから、吸う、吐く、と、荒い深呼吸を行った後、眉間を押さえて少し俯いた。
「君は」
 伊作さんは、うつむいたまま少し考えた。ややあって、眉間を押さえた右手の指先で重たい頭を上に押し返した。
「君は患者なんかじゃないから言うけど」
 また少しうつむいて、同じように親指で眉間を押さえた。
「クソ野郎だな」
「あはは」
 変な笑いが出た。
 真面目腐って、言うことだろうか。
「おかしいか? これでも立場を考えてオブラートに包んでやった」
「あ、おれ今冗談を解しました。そういうことですよね? だってそんなの、言う必要のない事だ。本当に思っていたとしても」
「ないな。ない。違う。ただ、僕が腹が立つから言った。僕の素直な気持ちだ」
「おれのこと嫌いですか?」
「はあ?」
 伊作さんは、訝しげに眉を顰めた。その顔はまじまじとこちらを眺めて、次第に意気消沈したように眉尻が下がっていった。
「そんな親に捨てられた子供みたいなこと言うなよ」
 と言って、さも苦しげに溜息をついた。
 これは親に捨てられた子供の顔だろうか、と思って、ふと自分の顔を両手で触った。手のひらでその起伏を撫でた。判らない。
 実際問題、捨てられてはいない。逃げ出しただけだ。
「僕が君に抱いている大半の感情は同情だ。大人として、他人として、友人として。たからどんなに君が減らず口のうまい小生意気なクソガキだとしても、僕は君の味方だよ」
 失敗したな、と思った。別にこの人のこんな重苦しい告白が聞きたかった訳じゃない。こんな空気はあまり好きじゃない。どう反応を返せばいいか判らないし、何の利益もない。
 顔を上げて時計を見上げた。
 何を思ったのか、伊作さんは小さくビクリと震えた。
「監視って言ったのはさ、勿論、師匠に君の面倒を見るように言われてるからだよ」と、早口に喋り始めた。
「社会に出て日の浅い君を援助しなければならない。とは仰せつかったものの、しかし師匠は僕に詳しい話などしなかった。調べりゃ判るって言って、君を送りつけてきた。僕は君らの記録をできる限り調べ上げた。公に報道されなかった分も含めてね。でも、そこまでだ。僕は事件の一部始終を見ていたわけじゃない。事件後の君を監視していたわけでもない。結局、僕は何も知らないも同然さ」
「しばらくの間面倒を見るってだけなら、何も知らなくても構わないでしょう」
「そうはいくもんか。君もさっき言ったぞ、好奇心って」
 好奇心。
 おれの周囲に集まる正常な人間は、皆そうだ。殆ど、恐らく、多分。
「僕が君の味方である動機は同情。僕が君の個人的な情報を知りたいのは好奇心のせい。はっきり言うと、学術的な視点から、君の境遇と精神に興味がある。君はこの世に何を求めているのか? あーあ、それはどうせ師匠にはちゃんと話してるんだろ。だから師匠は君を信じてこの街に送り返してきたんだ。そんなことはちゃんと判っているんだぞ。それなら何で僕は信用してくれないんだ。僕だけ蚊帳の外で、機械のように動くことなんて出来ないからな」
 早口で捲し立て、後半はほとんどおれの方など見ずに、天井と空中に向かって嘆きを飛ばし、終いにはいじけたように机へ突っ伏した。
「なあ」
 机に伏した腕の隙間から、ちらりと視線をのぞかせた。子供っぽいな、この人。そんな側面もある。
「僕は結構、君には本音で接しているつもりなんだけど」
 様子をうかがう目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 本音で? 嘘はないと? あるいはそうなのかもしれない。でも、この仕草は演技がかっている。
「だんまりか。そうか、僕のことが嫌いだからか」
「そういうわけじゃないです」
「いいんだ。好き嫌いで物事を語れよ。そのほうがよっぽど人間的で安心する」
「誰が?」
「僕が」
「おれ、別に伊作さんの安心のために生きてるわけじゃないんですけど」
「腹立つなあ、ほんと」
「帰ります」
「そう」
 引き止められなかった。伊作さんはまだ机に突っ伏したままだ。
 あと三十分。
 予定よりも随分短い時間で患者が開放されたとなると、看護婦は訝しむだろう。伊作さんが嫌がったのはそのことだろうし、本当のところおれもあまり他人に不信感を与えるようなことはしたくない。
 でもこれ以上話を続けても意味はない。この人とあまりにシリアスな話し合いをするのは、楽しくない。何となく。この人に嫌悪感があるとか、そういうわけじゃないんだけど。
「あ、そうだ」
 伊作さんが急に跳ね起きた。
「あのさあ、君に紹介したい人がいるんだよ。高校の頃の僕の同級生でね」
「はあ」
「向こうにはもう君の話はしちゃったんだけどさ、そいつ今警察やってるんだよ」
 えへへ、と少し誤魔化しを含めたように頭を掻いた。何故か? 何故かって。
「良い奴だから、色々相談してみるといいと思うよ。今度の日曜日にでも会ってみたいってさ」
 どうして人間ってのはみんな嘘つきなんだろう。もしかしたら人間の必要十分条件なのかもしれない。嘘は。
 伊作さんはおれの手に無理やりそいつの連絡先を書いたメモ用紙を握らせた。
 人の個人情報を勝手に他人に売りつけやがって、とは言わずに、おとなしく頷いておいた。


サイトを更新せずともブログを書かずとも文章は書けるということに気がついてしまった

拍手[2回]

「本当に気付いてないのか? お前の目は節穴か? それとも演技でやってるのか?」
 なんだって言うんだ。気付いたって、今の間に何があったんだ。あーちゃんの事なのか? 死体のことか? こいつとおれの視点で、そんなに重要な差異があったのか? おれの死角に入って、こいつの視界に入った情報。それとも全く別な……。
「気づいていないのなら尼寺へ行け、尼寺へ。演技だって言うんなら、やっぱり尼寺さ」
 つまり、殺すべきか、生かすべきか?

□十三、インチキ精神科医の思考実験
「学校には慣れたかい」
 と、白衣の医者はパソコンの画面に向かって質問した。
 茶色い木目の壁に囲まれた小部屋だ。おれは背もたれのついた大きな丸椅子に座っている。医者とおれの他は誰もいない。壁は分厚く、窓もなく、扉は重く、外の雑音は入ってこない。代わりに小さな音でなんだか柔らかいような楽器の音が鳴っている。
 医者は右手でキーボードを叩き、女のようにアップにしたボサボサの茶髪を、左手で何度か撫で付けた。
「まだ、色々と驚くことが多いです」
「そう? そういう顔はしていないように見えるけど」
 椅子を回して、こっちを向く。ニヤリと笑った。
 特に返す言葉もない。顔に出ないのは、育ちの問題。そういう性格なんだ。
「あ、そういえば、この間初めて友人と喧嘩しました」
「へぇ」
 医者は興味深そうに相槌を打った。
「学校でできた友達?」
「そうです。クラスの委員長で、おれの世話係」
「世話を焼かれるほど子供じゃなかろうに。君の知能レベルは同年代と比較しても問題ないほどに成長している」
「腫れ物ですよ。担任が、事前に指名していたそうです」
「そうかい」
 医者は肩を竦めて、視線をパソコンの画面へ戻した。
「その事実に怒りも悲しみも感じない君は、情緒的にまだ未発達との見方もできる」
 と、寂しそうに言った。
「関心が無いわけじゃないです。別に。そいつが友人であることに不満はありません。担任の判断には感謝しています」
「仲直りは?」
「しました。喧嘩した翌日に、すぐ」
 翌日、教室で顔を合わせるなりに、勘右衛門から一発食らった。あんな事があった翌日だったが、朝、登校してきた勘右衛門が特に普段と変わりなかったので、いつものように話しかけようと思って近付いたのだ。少し腫れた鼻のことをからかおうと思って。念のために。
 奴はおれが近づいてくるのを微笑んで待ち構え、急に不敵にニヤついたかと思うと、思い切りのいい右ストレートを放ってきた。
 顔面真ん中にヒット。避ける余裕はなかった。
 おれは意識をチカチカと白黒させながら、背後の机二つ三つを巻き添えに倒れ込んだ。
 当然のように、教室内は騒然となる。
 床に尻餅をついたまま、赤い痛みが居座る鼻の頭に手を当てた。勘右衛門のように、鼻血を出していたら間抜けだと思ったからだ。幸いにも血は出ていなかった。
「やられっ放しだったの、忘れてた」
 と、勘右衛門は笑った。
 女子のすすり泣きのような声が聞こえた。誰かが教師を呼びに行った。おれは慌てて立ち上がった。
「時と場所を選べよ」
「思い立ったら直ぐな性格なのよ。貸しも借りも嫌いだし。引きずると後腐れするじゃん」
 その信条は見習いたいと思うけど、授業前の教室なんて目撃者の多い所で暴行事件起こすのは、どうかな。
「昨日の話、本気だからな」
「怖っ。でもさ、おれも本気だよ。だからこれで、お互い開放されたってことさ」
「脅し合っている、の間違いだろ」
「そう。そりゃつまり、同じ意味だ」
 勘右衛門は周囲の目も気に留めず、意味有りげな事を言って笑った。こんな演出も、推理小説的で面白い……等と考えているに違いない。
 小走りで教室に現れた担任が目をひん剥いておれと勘右衛門を眺めた。
 勘右衛門は何事も無かったかのように散らばった机、椅子を元の位置に戻し始めたので、おれもそれに倣った。
 一時間目の授業の後に、二人揃って廊下で小言を言われた。
 教室で喧嘩はするな、と。それだけ。
「君は、順調に社会復帰への道を歩んでいる。素晴らしい。が、順調すぎて少し怖いな」
 画面を見つめたまま、医者は言った。
 おれは何も言わなかった。独り言だろうと思った。返す言葉も、特に無かった。
 ややあって、医者はふとこちらを見た。
「さて、今日で三回目の診察だが」


やっと伊作

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「彼女……彼女か!」
「何がおかしい」
 別にその理由なんか知りたくはない。こいつが笑っていようがそうで無かろうが、どうでもいいことなんだ。客観的に考えると。どうやらおれは滑稽であるらしいが、それはこいつの主観であって甚だどうでもいいことだ。それに腹を立てているおれの感情も、全く、どうでもいい筈だ。
 クソ、笑うなよ! 部外者の分際で!
「お前、これは犯罪幇助だぜ、判ってんのか?」
「彼女は犯罪者じゃない」
「いや! おれは見た! あれが何なのか、お前の位地からははっきり見えなかっただろうが、おれは証言できる」
「やめろ」
「庇う気持ちは判るさ。でもなァ、兵助君、現代日本じゃ、それは悪、って区分だぜ」
 息が止まった。
 肉体が何もかも不要になったような気分だった。脳髄だけが宙にぽかんと浮いているような。
 利害が反した。明確にそれは提示された。だから、
「殺してやる」
 冷えた手指が、思考と同期して速やかに動いた。
 やわらかい首の肉に人差し指と親指がめり込んでいく。おれは両手で勘右衛門の首を絞めている。その生暖かい皮膚は次第に湿気りを帯び始めた。酸素と血液が、細くされた管の中を喘ぎ喘ぎ流れていくのが判る。
 殺す必要があるとは思わない。
「脅しか」
 顔を歪めながら、掠れた声で勘右衛門は言った。抵抗もせずに。なんでだ?
「脅しだよ。警察に彼女のことを言うなら、殺してやる」
「今じゃ、無いんだな。手、離せよ。気持ち悪いんだよ」
「今だ」
「それじゃ、話が、違うじゃねぇか。馬鹿野郎、目撃者がいる……」
 ギクリとして、おれは周囲を見回した。公演の内部……遊具の影……道路際に植えられた樹木……鬱蒼と茂るその葉の隙間……オレンジの街灯……外側には沈黙して並ぶ住宅街……人影は無かった。不気味なほど、生きたものは何もなかった。その静寂につられて、いきを止めていた。そして何度も目を凝らして全てを見回した。
「落ち着いた?」
 視線を戻すと、勘右衛門は悠々と笑いながら、手の甲で鼻血を拭っていた。
 いつの間にか、おれは手の力を緩めていた。どころか、完全に奴から手を離していた。元々、本当に殺人なんてことをするつもりは無かったけど。
「今殺したら脅しにならないっつうの。大声出してやろうかと思った。殺されるーっつってよ」
「なんで出さなかった?」
「はっはっは」
 まったく愉快でもなさそうに、愉快に笑い、勘右衛門はおれの顔の前に人差し指を一つ、立てた。
「一つ、教えてやらなければならないと思ってさ」
「何だって?」
「お前を脅し返してやろう」
「はあ?」
 ニヤニヤ笑う顔を凝視した。無意識下で眉間の筋肉が緊張した。睨んでいるのはわざとじゃない。こいつの言動がそうさせただけ。
「おれは、お前が隠そうとしている真実を知ってしまった。警察も知らないようなネタだ」
「何の話をしてるんだ」
「しらばっくれてるつもりか? いや、もしかしたらお前は知らないのかもしれないな。どちらだとしても……」
「何の話なんだ? 真実って、何の……どの話だ」
「言えねぇなぁ。脅しなんだよ。脅し。おれはこの話を警察に持って行ってもいいし、黙ってやっててもいい」
「だから、警察に行くなら殺すって」
「ふっ」と、勘右衛門は吹き出した。
「殺す殺すって、繰り返されると陳腐だな。でもさ、お前、おれを殺したら、おれが何を知っていたか判らなくなるぜ。もしかしたらお前の知らない重大な話かもしれないのに」
 なんだ、こいつ。ハッタリなんじゃないのか?
 実際何も知らなかったとしても、ここまでなら喋れる。なにしろ核心を述べていない。

拍手[1回]

 勘右衛門は二発目の拳を握りしめていた。
「なんだよ」
 鼻血で下半分赤くなった顔が、若干、怯んだ様に言った。
 何って、何も証明なんて出来ないから、手が出たんだ。そんなのは弁明にならない。判っている。
「なんか言えよ。何のつもりだ。邪魔すんなよ!」
 語気を強めた。
 こいつは、諦めてはいない。
 当たり前だ。その通り。
 こっちの方が正しいんだ。
 でも、おれは猛然と奴の襟元へ手を伸ばした。
 もう一度、コンクリートの壁に背中を打ち付けるようと思った。が、さっきのように簡単に突き飛ばされたりはしなかった。
 この暴力は分り易すぎたらしい。
 勘右衛門はその前に半歩を引いて背中をコンクリートへ貼り付けて、衝撃を耐える姿勢に入っていた。
 おれは確かに勘右衛門の襟首を両手で突き飛ばした。存外に手応えがなかった。
 だからおれは奴の首をいつでも締め上げることができるように、その首筋に両手のひらを這わせて、壁へ押し付けた。
 その左手を、勘右衛門の手が掴んだ。それから鼻血まみれの顔でニヤリと笑った。
「笑うな」
 その笑い顔に、急に怒りが湧き上がった。
 彼女を馬鹿にされているのではないか、と、そんな考えが頭をよぎったからだ。
「笑うよ。お前面白いわ」
「彼女は犯人じゃない」

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